今日は、フランス菓子との出会いから、教室を始めるまで。
そして、どんな歩みをしてきたか、を書いてみようと思います。
長いです。
こどものころは、母の手づくりお菓子で幸せなおやつ時間を過ごしました。
まだオーブンが一般的でなかったころ…
ガス台の上に大きな箱型のオーブンをのせて、焼く、というスタイルで、いろいろ作ってくれました。
母は、何をやっても器用にできる人だったので、特に習う、ということはしてませんでしたが、今思っても、上手でしたね☺️
私が幼稚園に上がる前、3〜4歳のころは、シュークリーム、ロールパン、マドレーヌ、キャラメル…
クリスマスには、バタークリームのケーキ。
その後はレモンケーキ、ババロアなど。
母も楽しんていたと思います。
三姉妹の末っ子の私は、いちばんお手伝い(じゃましてたと思います)をしたがっていました。
絵本を読んで飽きては、母の料理本やお菓子の本を眺めるのが好きでした。
その後は、特にお菓子作りをすることなく、大人になりました。
音楽短大を出て、広島でヤマハ音楽教室の講師をしていたころ、頑張りすぎて声が出なくなり。
数カ月は、声の出し方がわからない日々で、治療法もなく。
生徒もたくさん手離して、気分的にも絶望していました。
そんなとき、フランス菓子とワインが出るパーティーに、誘われて行きました。
そこでクロカンブッシュ(プチシューを飴で積みあげた飾り菓子)をみた瞬間…
「私、これ(フランス菓子)をやる」と、ピンときて、それを作った方(フランス菓子の先生)がその場にいらしたので名刺をもらい、教室に通い始めました。
先生は、当時パリのリッツホテルにできたお菓子学校リッツエスコフィエに行かれた方でした。
その頃、藤野真紀子さんの一冊めの本「パリに行って習ったお菓子」でリッツのことが書かれていて、毎晩熟読し、私もリッツへ行く、と強く心に決めました。
そして、自分の時間、経済、全てをお菓子の勉強にあてる…という日々でした。
お菓子に夢中になるうちに、咽喉の病気のことはいつのまにか忘れ、何年もかかりましたが、治っていきました。
そんなころ、ここ(広島)では私の人生は変わらない…と直感して、両親の住む福岡へ、転勤願いを出して、転勤しました。
福岡では、「博多の料理人」という小冊子を書店で手にし、そこで紹介されていたフランス菓子教室に一年弱通うことになりました。
(そのクラスで共に学んだメンバーは、その後ほとんど教室を持ち、今思うと、本気の人が集まるすごいクラスだった…と思います。)
その後は、広島で知り合ったフランス菓子店のシェフの方にところに、2年ほど毎月福岡から新幹線に乗って習いに行きました。
その先生に、
「もう教えてもいいよ、できるよ。」
とお墨付きをいただき、教室を開くことになりました。
マンションの掲示板に、フランス菓子教室の張り紙をしたら、ひとりの方が来てくださって、忘れられない方になりました。今もお名前を覚えています。
そこから口コミで少しずつ、広がっていきました。
(今思えば、本当に未熟でした。
今も未熟なんだから、あまり前ですけど。)
その頃は、初めてひどい腱鞘炎を患い、紙一枚持てないほどでした。
手を使う仕事には致命傷で、治らず、また絶望していました。
なんとかだましだまし手を使い、休めたりしながらお菓子を作る日々でした。
結局、今もすぐに手を痛めてしまう体質で、痛くない日はないのですが、無理しないように、痛くならない手の使い方をして、この体と付き合っていってます。
その後、念願のリッツのお菓子学校へ。
ぜったいに行く、と心に決めてから、7年たっていました。
フランス語も英語もわからず、授業を受けたのですが、フランスの素材にふれ、リッツの厨房でお菓子を作り。
なんと言っても、初めてのフランスで本場のお菓子に触れられたこと、空気、街並み、文化、全てが感動的で、心からの幸せを感じました。
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ここからは、ちょっと余談です。
フランスでは、ホテルは2泊だけ予約して、その後の滞在先は、あちこち歩いて気に入るところを探しました。
偶然にも、感じのいい商店街にある、すごく可愛くてリーズナブルな、素敵な一つ星のホテルを見つけることができました。
フランス語しか通じなかったんですが、たまたま通りかかった日本語ができる方が、通訳してくださって、残りの日数分、予約できました。
これも奇跡的でした。
ここはとても気に入って、友だちにも紹介し絶賛され、私はその後2回パリに行きましたが、同じホテルに滞在しました。
今は三つ星になってるみたいです。
余談はおしまいです。
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その後は、独学で勉強しながら、お菓子教室をしていました。
私は器が好きで、よく通っていたヨーロッパの器や雑貨のお店の社長さんから、「習いすぎると真似になる」というお話を聞いて、自分なりに考えて、独学を選びました。
数年たち、初めて仕事のオファーがありました。
ワインも飲めるカフェで、週に1.2日デザートを作る、というもので、聞いた途端に「やります!」と返事をしていました。
そこでは、自由に作らせてもらい、イベント時はウェディングのケーキも作り、調理も手伝い、調理師の免許も取ることができました。
ワインにも興味をもち、ワイン教室に通ったり、あちこちのイベントにもよく参加していました。
エノテカさんのワイン講座で、隣に座っていたのがチーズ専門店「欧グルマン」の店長さんで、仲良くなり欧グルマン主催の、チーズの会に参加するようになりました。
その会で、よくお会いしてたイラストレーターの方に、私の教室のマークや、お菓子の絵のポストカードを描いていただくことになりました。
彼女は、国家資格であるチーズプロフェッショナルの他にも、ワインエキスパートや、他にもお酒に関する資格もお持ちで、フランス語も堪能なため、ポストカードには、さらさらとフランス語を書いてくださってます。
その絵をホームページの中でも、かわいく使わせてもらっています。
欧グルマンとの縁ができ、うちわの食事会にも呼んでいただくようになりました。
2002年に、先代の夢であった、欧グルマンのショップをオープンさせることになり、私はオープニングスタッフとして、半年ほどお手伝いすることになりました。
そのときに、チーズ全般をひととおり覚えました。
その後、ショップでチーズケーキを出す話かあり、私が作ることになりました。
そこから20年以上も続けるとは…
心を込めて、作らせていただきました。
残念ながら、2023年に、欧グルマンは閉店してしまいましたが、食材のこと、チーズのこと、そしてチーズケーキ作り、本当に勉強させていただきました。
2002年ごろオープンした、キッチン道具専門店の、キッチンパラダイスさんともご縁があり、
ありがたいことに、ホームページに福岡のお菓子教室として紹介してくださったり、イベントではいろいろと声をかけていただきました。
そこから、JAさんのレシピ開発や、西部ガスさんの講師など、広がっていきました。
他にも、ご縁がつながって、カフェのお菓子を作ったりもしてきました。
西部ガスさんの方から、ブログをすることをすすめられ、2010年にエキサイトブログを始めました。
毎日更新をしていたときもありますが、細々と…ですが、続けてます。
YouTubeも、なぜかわからないけど、やりたい…と思い、始めました。
YouTubeは、撮影、編集を自分でやらなくてはいけません。
機械に弱い私にとっては、難題なことです。
なんとかスマホでやってますけど、クオリティを上げるために、準備をしています。
更新が滞ってますが、まだやる気でいます。
こんなことをやりながら、お菓子教室は、変わりなくやってきました。
私は常々、お菓子教室の内容や、私のお菓子への思いを表す場所がほしいと思っていて、ホームページ作りに挑戦したのですが、挫折して…Kさんにお願いすることにしました。
Kさんは、お人柄も素晴らしく、私以上に考えて取り組んで下さって、私では想像もできなかったようなホームページができあがりました。
そして、グーぺさんのホームページ大賞にノミネートされたのでした…✨
生徒さんが来てくださるからこそ、教室をやってこられ、レシピも生まれ続けています。
生徒さんに育ててもらってる、ということは、まちがいありません。
これまで、お菓子をやめたいと思ったことは、一度もないので、これからも体力がもつ限り、続けていくつもりです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。